闇に輝く月を見るたびに不思議に思うことがある。月は太陽の光を反射して輝いてい
る。しかし、月に達する光はどこにも見えない。光は闇の中に隠れている。宇宙は真空
であり、光は反射的するものがない限りどこまでも「闇」となって通過し続ける。光は
それを受けるものとぶつかって初めて顕われる。私たちが闇として見ている茫漠たる宇
宙空間に光は偏在している。
三輪洸旗の作品を見て、上記のことを想起した。彼の絵画は、実に「闇の光」の顕現
だからだ。彼は、シナベニヤに施したほぼ単色の油絵具やアクリル絵具の地塗りに自ず
と「図像」が顕れるのを待つ。これは「闇の光」が月にぶつかり顕れるのと同種の現象
だと筆者は考える。絵具の板に及ぼす作用とも考えられるが今までにない(もしかした
ら太古には存在していたかもしれない)特異な「技法」である。ここに「無筆の絵」が
成立する。
なぜこのような「技法」が生み出されたのか。それには三輪の特異な感覚が作用して
いる。三輪には神的なるものを感得する力がある。いわば三輪の意識を「支持体」とし
て不可視の「光」を捉える能力である。彼の内面には神的な光が輝いている。三輪の「
技法」は、この「光」を物質の世界に転写する術(ルビ すべ)なのである。
彼は支持体であるシナベニヤを「感光板」と呼んでいる。表面に施した絵具はさしあ
たり「感光材」といったところか。素材としての木(植物)は水の「変容体」であり、
地球の「記憶」をとどめているという。そこに彼の意識の「変容体」である絵具を塗布
する。ここには三輪の祈りがある。自然物の上に己の意識を乗せる−つまり意乗る(祈り
)ことにより神的光を受け取る感光板−「闇の光」の感応体を作るのである。これは一種
の依り代だ。「光」を捉え、留まるものにする。「装置」なのだ。ここには奇跡的なことが
出来する。不可視の光が可視光として顕れ出る。顕れた「像」は謎の「しるし」だ。どの
ようなことが書き込まれているのか。そこから何を読み取るのか。予断は許されないが、
確かにここには目に見えぬ何ものかが私たちに伝えたい事象が、顕現している。それが良
い知らせなのか悪い知らせなのか、すべては人にゆだねられている。三輪はかのものの伝
令としての役目を果たす。
不可視の神的光はこの世界に偏在している。それに気づくか気づかないかは私たちの意
識次第だ。かのものは絶えず私たちに示し語りかけている。しかし、それは肉体の目や耳には見えず聞こえない。ただ魂は自ずと反応している。気づくにはきっかけが必要である。三輪の作品はこの上のない契機となる。彼の作品に促され、私たちの意識もまた神的光を受ける支持体となる。そのとき私たちの心は闇に輝く月のように照り映えることだろう。
(三輪洸旗展 −タカマガハラ− テキストに執筆 足利市立美術館次長 江尻潔)
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